お笑いといじめの境界線
【いじめに対しての感性のようなもの - S嬢 はてな】
彼はそのコーナーのちょっと前に、「抱かれたくない男ナンバー1に数年連続で選ばれた」ということでさんざんいじられ、バラエティ番組であるにも関わらず、そんなネタにされてさんざんいじられて、自分の妻の立場はどうなる、自分の子どもの立場はどうなる、と、ぶつぶつぶつぶつと怒っていた。自虐的な笑いに転化できない、ってことでプロじゃない、って言う人はいるかもしれない。でも、彼の怒りに対して(そうだよな)とわたしは思った。
【はてなブックマーク - いじめに対しての感性のようなもの - satomies’s diary】
# 2006年11月03日 kanimaster kanimaster TV, 社会 フォローのない差別ネタは笑えない。
【Voice of Stone #1450 「お笑い」「ドッキリ」の 公開イジメ】
「他人の不幸は蜜の味」はお笑いの重要な要素のひとつであるが、いくつか基本的なルールがある。
1.他人ではなく、自分をネタにする。(自虐ネタ)
2.弱者ではなく、強者をネタにする。(政治風刺など)
3.自分が同じ事をやられた時に笑って許せる。
4.1対多という構図にしない。
5.相互の信頼関係。(漫才のコンビ)
5かな。つまり、相互認証なしのいわゆる“イジリ”は、単なる“いじめ”にしかならないと思うし、それは自虐的なお笑いに転化できない。そもそも、自虐的なお笑いだって、圧力に苦しんでいる側がアンチカルチャーとして楽しんでいたものなのに、圧している層が更に圧することを強化するためにその笑いを利用するなんて、搾取そのものだと思う。*1 *2
あと海外番組特集とかで目にするドッキリ番組とかどうなんだろう。お国柄、ユーモアとして認められてる、という見解は偏見過ぎると思うしなぁ……。ドッキリはどこまで許せるか、とか。個人的には「100人隊」とかはまだ許せる方なんだけども、この前見た「スーパーに置いてある青果を詰める用のビニール袋が四方とも密封されている」というのは非常に腹立たしかった。