ジレンマの果てに何を求める?

いろいろあってちょうどジレンマ真っ盛りなので、自分の抱えているジレンマに関してだらだら書き下しながら気を落ち着かせてみるテスト。

http://d.hatena.ne.jp/nitino/20060806
「過剰適応」の意識からって、昔ブクマに書かれていた。私は摂食障害になっていた時の自分は、全身全霊で、世界に対して「イエス」と「ノー」を同時に、大声で誰にも聞こえないように言っていたと思う。トイレで延々と。そうするしかなかった。適応なんてしたくなかった。適応しないで生きていける人が羨ましかった。自分を辱めた人間達の世界の一部になんてなりたくなかった。そういう人たちが喜ぶなんて耐えられなかった。適応したかった。適応して生きて行きたかった。自分を受入れてくれる人達の世界の一部になりたかった。喜んで受入れて欲しかった。優しくして欲しかった。一部になりたかった。淋しかった。生き方が解らなかった。

そんなことしなくても、いいなら、過剰じゃない適応が出来たなら、どんなによかったか!血まみれで、汚物に塗れながらトイレで目覚めた私は、心の底からそう思った。私にも、きっと、他の選択肢も有ったはず。でも気付けなかった。解らなかった。全く解らなかった。

ある一定の水準を求めてるのに、自分そのものが歩幅を揃えることに対して拒否反応を出す、もしくは歩幅を揃えることが出来ない。このジレンマはいつでも悲しい。悲劇しか生みようがない。あまり詳細な話は書きたくないんだけども、自分も「歩幅をそろえたいのに揃えられない、揃えたくない」というジレンマを抱えて生きてきた感があるので、同調するわけじゃないけど、自分にとってもこの世界に対する見解は常に「イエス」であって「ノー」だし、「ノー」であって「イエス」です。*1

はてなブックマーク - 暴論!「サブカルチャーはサブカルチャーへの憎悪から生まれた」 - POP2*5
# 2006年08月07日 Masao_hate Masao_hate サブカル 80年代サブカル的なものへの幻想は僕の中にもある。こういう文章読むとそれが増幅される/たぶんそれは、文化的なモノが「モテ」だった最後の時期だからじゃないかな。今音楽って「モテ」じゃないよね(今思いついた

テクノ音楽が好きな自分が「CDやレコードを買うことをやめよう」と本気で考えかけた一文。だって、俺の好きな音楽で誰ともコミュニケーションが取れないんだぜ? これを絶望以外のなんだと言うんだ! オタクでさえ、孤立を恐れて群れてるじゃないか!*2

屈託の無いぬるオタ仲間達――賢くなくても楽しい日々 - シロクマの屑籠
でも、こんなの当たり前なのかもしれない。オタク分野全体をどれぐらい見渡せたとしても、どれだけ専門的なオタ技能を身につけたとしても、それだけではオタクがは幸せになれるとはちょっと思えない。オタの幸不幸に直結するのは、オタとしての優秀−劣等なり高尚−低俗といった数直線ではなく、“どれだけ楽しく仲間達と付き合っていられるか”や“どれだけ葛藤少なくニコニコしていられるか”に違いない。『頭の良い』『視野の広い』『優秀な』は、『楽しい』『ニコニコした』『満足な』とは必ずしも一致しないし、時に相反することさえある。この事を思い返すにつけても、オタ界隈もやっぱ人間関係が大事だよなぁと思わずにはいられない。モテない事への葛藤もオタとしての変な後ろめたさも感じず、楽しくオタオタ出来るなら、それで彼らはもう勝ち組だし*4、そんなぬるオタコミュニティなら全然問題ないだろう。ぬるかろうが浅かろうが、自分の所属するコミュニティとオタ仲間達を大切にしていくってものだろう。

羨ましすぎる。
自分の価値観にブレがなくなったときこそが、ある意味で最高の幸せなのかもしれない。
……しかし、その価値観を実行出来る出来ないもピンキリであるため、いい大人になってから患うケースなどもある。

http://iwatam-server.dyndns.org/column/79/index.html
自分の価値観が確立している人にとっては、例えば「清廉潔白でありたい」と いうのは、「腹が減ったからメシを食いたい」と同じような、自分の心からの 欲望なのである。そして、それは普通の欲望と同じように処理される。そこに 何ら裏の意図はないし、理由を人にも説明できない。聞かれたらただ「それが カッコいいから」とか「そういう生き方が好きなんだ」としか言えない。そし て、こうした行動理由は、「自分の価値観」というものを理解できない人には 永久に理解できない。

自分の価値観が確立していない人にとっては、例えば「清廉潔白でありたい」 という考え方は、「称賛されたい」とか「仲間外れにされたくない」といった 他人との関係において生ずる。つまり、清廉潔白であっても他人が称賛してく れないなら、清廉潔白である必要はないわけだ。自分がどう思うかより、他人 にどう思われるかの方が重要になる。

はてなブックマーク - http://d.hatena.ne.jp/bluede/20060806/1154879564
# 2006年08月07日 junkMA junkMA 弱者 “ある基準”に対する適応を追い求めるということは、それこそが利潤によってのみ支配される感覚であって、決して自らの心から沸いた行動欲とは別のものである。悩める者は、自らが欲する意識を根気強く探るべきか。

弱者のジレンマ - 東京横浜オーケストラ
『強い世界に憧れていながらも、それが手に入らないゆえに強いものを憎んでしまうが、結局実力主義の中では弱い自分がいけないんだ、と考えてしまう』
“出来たらいいなと思うけど、それ自体は好きではない、努力、という方向ではやりたくない”というのもこれに当てはまる。

コミュニケーションのために自分を殺そうとしても、結局は殺せない。やはり自分は自分でしかないんで。そして、今日もジレンマの渦に振り回されて日和りつつ、誰に伝えたいわけでもない、しかし全ての人に伝えたい文章をこうやって垂れ流している所存です。*3

*1:しかし、「ノー」であって「イエス」だなんて口が裂けても言いたくない、認めたくない、という気持ちは根強くある。

*2:群れて無くても平気なくらいまで上りつめている人もいるけどね。そういう人も羨ましい。

*3:しかし分からないやつは分からない。そういう人に一番分かってもらいたいのに、だ。