生き辛さってのは

つまりは個人各々の生き難さの集合体が社会であるわけで、そこをどうするかっていうのは、まぁ、駆け引きと言うか、それが生きるって事なんじゃないのかな、と思ったわけです。「ありがとう」の一言が本気でありがたかったりとか、誰かに頼られることが行動の原動力になったりとか、ベタに染まれずメタに染まってしまったがゆえに社会のつまらなさを知り尽くした不利をしてしまってひきこもってしまったりとか、性的な目で見られたくないゆえにモロッコへ飛んだりとか、自分の親がだんだんボケてきてしまって会話がかみ合わないことを耐えていたりとか、愛することと愛されることを忘れてしまったがゆえに力だけが空回りして無力に打ち震えたりとか、空を飛んでいるつもりが薬漬けでうん10年とか、産みたくても社会的なバックアップに欠けすぎて産めないとか、産めるけど飢えで死んでしまうとか、やりたい仕事が分からないゆえに事務職に甘んじている状況を苛立ったりとか、絵が描けるやつが信用通貨を回収していることに苛立ちを覚える文章書きのジレンマとか、繋がらないと繋がれないことに気が付いてもやっぱり繋がれなかったりする状況とか、要は生き辛い。


でもそれだけじゃないと思うわな。生き辛さなんてものはインビジブルっちゅうよりナチュラルであると認識した方がいいよ。そこを掘り下げていったところで、根本的な解決が出来るものなんて極僅かだと思うさ。宿命。諦めろと言いたいわけじゃないさ。諦めた方がいいなら最初から「やめとけ」って言うし。やめない人はやめないけどさ。それは宿命。人が人として生きるための、自然が生み出した自然な宿命。幸福があっさり手に入ると思ったら……まぁ、それもあながち間違ってはいないだろうけども、簡単に手に入るものは、やっぱどうしょもないモノでしかないと警告したい。いや、俺自身どうしょもないものを食って生きてきたような人だからあんまし堂々とモノは言えないけど、反面教師として、どうしょもないものを食ってばっかいるとこうなる、ってのはやっぱり言いたいし。だからいま色々と別の方向で苦労しているわけだし。あー、言いたいことは結局アレだ、生き辛いなら、なるべく戦った方がええんでないの、自分と。っちゅう話をしたかった。非モテをオナニーと言い切ることで、差別や偏見をひとつの手段であると言い切ることで、ようやく俺が想定するところで言うとこの“常識”にたどり着いたと感じている。ある人にとっては当り前すぎる話だと思う。でも、これは、こういう見せる場所でちゃんと書きたかった。生き辛さを強く意識してしまった一人でも多くの人にこの文章を捧ぐ。