『ぼくら』のデモ

http://self-consciousness.g.hatena.ne.jp/kusamisusa/20070430/p1

しかしやっぱりニヒルな気分になる。「デモなんかやるな!黙って言うこと聞け!」っていう権力じゃなくて、「デモやるのはいいよ。言論の自由だよ。でも通行人に迷惑がかかったり、怪我人が出たら大変だから、言うことを聞くんだよ。」という権力。パパが私たちを優しく見守っている。怒った参加者*1に対して警官が「乱暴な言葉遣いはやめましょー」とか言ってるのを見て、猛烈な敗北感に襲われた。平凡な日本人であるところの私は、自分の力で政治が変わるとか、政治の力で世界が変わるとかいう感覚を、思い出すことすら出来ない。


サウンドデモと公共性 - 記憶のメモ帖

以上4つの要素から考えまして、サウンドデモを行う側は本当に「公共性」や「公共空間」って奴を意識しているのでしょうか?


まずそもそもサウンドデモとそれを行う側は1と2が違いますよね。


客観的にみて、非常に内輪内輪していて閉じている印象を感じますし、デモに集っている方々も高円寺界隈の似たような人々。(これは4も絡むかな)ぶっちゃけ「また高円寺か!」と思いましたよ。本当、なんでこう中央線沿線に集中するんでしょ。あ〜あと下北沢とかさ。


以前に秋葉原でもやったそうですが、それでも東京西部のサブカル地帯に集中してますよね。


「中央線マルチチュード」とか自分達で言ってますし・・・。


ゆえに、はっきり言って「公共空間」の確保と言いながらも、やっている事は自分達の共同体や共同性を路上に垂れ流してるだけなのですよ。


「路上の解放」と言いながらも、結果的には路上を自分達の共同体で専有してるように映ってしまうのですよ。


というわけで、“『ぼくら』のお祭り”を盛大に楽しんできた皆さん、お疲れ様でした。


▼追記1
皮肉、というか、所詮当事者性がない人には『ぼくら』という内側に軽々しく入ってくるわけも無いので、定期的に祭りをかまして、散らばっている『ぼくら』を出来る限りかき集めて、またわけのわからないお祭りをやって、それをきっかけに繋がりを産んで、さらに新しい祭りの種をばんばん撒き散らしていったら、世界が変わるかどうかは分からんけど、少なくとも『ぼくら』は変われると思うんで、いいんじゃないのかなぁ、と思ったり。


▼追記2
「デモをやる元気があるならその分努力しろ!!」 - 想像力はベッドルームと路上から

もし今回のデモの様子でもって「プレカリアート」のパブリックイメージが決定されてしまうのだとしたら、それは「プレカリアート」の実態を相当歪めてしまうことになるんじゃないだろうか。

でも、絶対に忘れて欲しくないのが、ああやって路上に出て大騒ぎしている「プレカリアート」の何倍、何十倍という数の「名乗らない人々」がいるということだ。

あー、そうか……もはやデモにすら参加できない分断された存在が、実は何十万単位でいるということを考えていなかった……。『ぼくら』という存在が、実は内部の更にごく一部でしかない、というのをある意味で思い知らされた感じだ。……なんだろ、大正デモクラシーばりの暴動連鎖が起きればとも考えたけど、それはすでに万引きGメンによって弾圧されてしまっているし、それ以上の規模のことをやらかしても、“一般市民”が求めるのは政治改革よりも鎮圧になりそうな気がしてますます怖く思う。