[人間ちゃん]タグについて

それが答えであるような、でもこちらも答えであるような、どちらにしても譲れない感覚ではあるし、でも、いわゆる一般倫理とか、空気読んだ結果とか、洗脳大戦とか、そういう部分を吟味していくとこれ流されそうだよな、でも、その感覚はやはり自身の中にもあるし、時にはその対象者にもあるかもしれないし、なんだろうなぁ、正しいことってなんだろうなぁ、正論ってなんだろうなぁ、結果論ってなんだろうなぁ、でもそういうことに抗りながらも、自意識を崩さない程度に物事をうまく運びたいんだけどなぁ、無理なのかなぁ、『でも』……。


というような意識に近い感覚を覚えたときに、「人間は」というえらぶった態度ではなく「人間ちゃんは」という「ミーはね」的な態度で“人間的”と感じた何かを、(他者ではなく)自身に対する嘲りを含めたひとつの記憶として刻んでいるのが[人間ちゃん]というタグです。


ちなみに、個人的には人間という存在そのものに対する尊敬の念も侮蔑の念もありません。いわゆる“優れている”と多数が認識しているであろう人間にも、“そうではない”人間にも、なんらかの“人間が人間に感じえる人間くささ”というものはあると感じています。それが「何であるか?」と尋ねられても、なかなか言語化はできませんが……、ただ、優れているor劣っている、という感覚でタグ付けしていない、ということだけはちゃんと書いておきたいと思います。