絵描きと絵描きでないもの間に仕切られる絶対的な何か

『角煮豚』


この言葉の由来は、過去に自分が所属していたオタクコミュニティ内での、とある絵描きの発言に起因する。
そのコミュニティは、にちゃんのとあるスレをメインにぐだぐだとたわいもない話と、絵描きによって時たま絵がうpされるを絵描きと共に楽しむ場であった。あるとき、そのスレに絵描き*1によるひとつの書込みがあった。


「半角二次元板にあるスレ*2はもうダメだ、あそこには豚のように絵を請うだけのクレクレ厨しかもういない」*3


この書き込みの後、“角煮豚”という呼称が自然に湧いて出てくることになる。
自分はこの“豚”という表現に猛烈なショックを受けた。豚のように絵を請う、というのは家畜として飼われている豚が、日々家畜小屋の一角に設置された餌やり場に群がって、定期的に、それこそ動物であるかを示すように、ただただ餌を貪るかのような光景を思い浮かべた。それは罵倒としてとても厳しいものであった。連想される光景では品なんてものは全く感じられず、求めて消費をするというスタイルそのものを真っ向から批判するような念が込められているように思えた。
元々は、いわゆるクレクレ厨を標榜とした言葉だったが、最終的には「絵描き以外は身内でもない限りタイトな発言は許されないものである」という"教祖と信者"的な構図を強調する形で使っていた。*4


今はそのコミュニティから離れたが、未だに、消費するだけの自分の行動に対して、少し後ろめたいものを感じている。「ならば絵を描けばいい」と軽々しく言われたこともあったな、その絵描きに。それは非モテのアレと同じく、簡単にそうできれば、後ろめたい気持ちになんてなるはずもない。

また君か。@d.hatena - 個性話
ようするに、「やってみようかな」と思ったことができなかったり、より本質的には、「やってみようかなと思うことのできないこと」があったら、それが個性の境界線だ。

自分にとって、“絵を描くこと”は「やってみようかなと思うことのできないこと」だった。いやま、絵は時たま描いていたにはいたけど、継続して楽しめるものじゃなかった。思い通りに描けないことが、ただの苦痛でしかなかった。「それを乗り越えるのが楽しいんでしょ」というありがちな論に正面からぶん殴ってなりたくなるような、じりじりとした悔しさだった。


絵を描けない人は、果たして創作者と対等な目線で絵を楽しんではいけないのだろうか?*5
たしかに、創作者の目線に立てないと言うことは、創作者が感じる嫌悪感をそのままぶつけた挙句に逆撫でまでしてしまう場合があるのは否めない。では、結局、教祖と信者ばりの、言ってみれば女子ニケーションの延長上であるコミュニケーションしか取ることができない(取ることを許されない)のだろうか?


……うわ、とても視野の狭そうな叫びだ(苦笑)

*1:表現力が高く、キャラも濃かったため、発言力も強かった

*2:ジャンル別のエロ絵うpスレのひとつ

*3:実際はもっと投げ捨てるような書込みだったと思う

*4:個人的な話、この“教祖と信者”という構図には今でも気に掛かっていて、多々mixi内で余計なことをした経験が……

*5:それは考えすぎなんじゃないのだろうか?