幸せ意識の運用戦略

成功や欲望を「たいしたことねーな」と実感できるようになることにこそ、成功体験の意味はあるのかもしれない - 世界のはて

簡単に言うと、成功に飽きる。欲望に飽きる。つまり、人生に飽きる。若い頃みたいに無邪気に面白く生きるということが、なかなか難しくなってくる。


ITT-WEB - うぇブログ2

しかし、あえて言う。「たいしたことねーな」と思う程度の成功はやはり「たいしたことねー成功」だと。


そして、その程度の成功で楽しかったのであれば、他の成功だってもっと楽しいはずで、それをあきらめるにはまだ若すぎる。そう奮い立たせたい。逆に言えば、そう奮い立たせないと挫けてしまいそうな31歳の自分がいる。


これから式場の下見に行ってきますが - シロクマの屑籠

僕はまもなく結婚することになっています。今日も式場の下見に出かけるつもりですが、結婚に「幸せ」を求めることは出来うる限り回避したいと考えてはいます。とはいえ結婚などという難儀な選択肢を選ぶことも、結局は漏れ出る諸執着に由来するわけで、その限りにおいて落胆や絶望の萌芽から逃げきれません。一方、僕は自分が凡庸な人間である、少なくとも凡庸な人間とそう変わらない行動遺伝学的特徴を持った雄であると推定しているので、凡庸な人生の諸先輩が創りあげてきた世間智から大きく外れないほうが執着の制御が容易なのだろう、とは推定しています。少なくとも僕の場合、結婚せず家族も持たずに生きていくことは、それはそれで(おそらく五十代以降に)相応の渇望を惹起すると予測されるので、結婚という名のコストとリスクを払ってでもその渇望を回避出来やしないか、という企みが結婚には含まれています。勿論、因縁の流れが偶々結婚に向かっているからそれに逆らわずに乗るんだ、という側面もありますが、僕にとっての結婚は、どこへ行っても不満足と不幸に充ち満ちた娑婆世界のなかで、僕なりに折り合いを付ける為の大がかりな方便としての側面も持ち合わせているわけです。これは、長期的な適応の賭けです。僕の長期的執着妥協予測がどこまで当たっているのかは不明ですが、さしあたり現在の手持ちの見識の命ずるまま、命の蝋燭を“少しでも餓鬼道から遠ざかるように”賭けていくしかありません。その参考書として、世間智・仏教的視点・学問が少しでも役立てば良いのですが(おそらく、情念の前にはそれほどの役には立たないのでしょう)。


幸福感保持のための戦略的思考停止っていうのはアリだと思ってる。んでも、この人たちは、それよりも“挑むこと”に幸福感(非不幸感)を感じたからこういう意識でいる。それもそれでアリだと思う。


いやね、なんていうか、『幸せ』っていう概念を考えていく上で、将来を見据えて幸せを運用していく方法、『幸せリスクヘッジ』もしくは『幸せ経済学』みたいなものをもう一歩踏み込んで考察する必要があるんじゃないのかなって思ったんですよ。特に、天然もしくはDQN的要素を簡単に獲得できない人は。考察まで行かずとも、常にそれを意識して行動できれば、(消費方面での)お金の問題や、コミュニケーション技術運用の問題なんかも、並行的に思考を応用できるんじゃないのかな。