「死」という言葉の扱いが軽くなったのは何故かを考えてみた

ふと、『なんで“死”というとても大きな意味を持つ言葉を軽々しく扱ってしまう人がいるんだろう?』と不思議に思ったので色々考えてみた。


“死”という単語が使われている言葉として「〜は死ねばいいのに」「死にたい」が挙げられる。それぞれ、『他者に対する要望』と『自身に対する願望』で使用されている。じゃあ、なぜそれぞれに“死”という状態に変化することを望んだり願ったりするんだろう?


そもそも人間にとっての“死”とはなんだろう? どんなイメージなんだろう? 『科学至上現実主義な世界で育ってきた日本人』にとっては、それは『“生”の状態と相対的に存在するもの』だったり『意識の消失』だったりするんじゃないのかな? 今回は『(“生”が)消える』、『(“生”が)失われる』といったイメージとして扱われていると考えて、『“死”=“消失”というイメージ連鎖が起きている』、と解釈してみた。あと、忘れてはいけないのは、“死”に対するマイナス影響的なイメージ。『“死”に対する恐怖』という感覚、これも念頭においておこう。


『“死”=“消失”』という意味で使われいるなら、「〜は死ねばいいのに」という言葉も「〜は消失してしまえばいいのに」という風に変換することが出来るし、「死にたい」という言葉も「消失したい」という風に変換できる。


今度は“消失”という言葉について考えよう。“消失”を辞書(三省堂提供「大辞林 第二版」)で引いてみると『消えてなくなること』と書かれていた。まんまじゃん! いや、言葉の意味はちゃんと調べれば別の具体例に置き換えられる。はず。今度は“消える”で引いてみる。『(1)目に見えていたものがなくなって、見えなくなる。』、『(2)感覚がとらえていたものが感じられなくなる。』、『(3)感情・印象など、心に感じていたものがなくなる。』、『(4)存在していた物がなくなる。行方がわからなくなる。』、『(5)意識がなくなる。気を失う。』、『(6)死ぬ。』。どうやら(1)と(3)あたりが関係してきそうだ。


『(1)目に見えていたいものがなくなって、見えなくなる。』、つまり『視覚から情報を入れることによって意識しなくなる』ということかな。『情報を入れる』という部分に重点を絞れば、『あらゆる情報を入れないようにすることによって対象を意識しなくなる』ともできるかも。『“対象者”が死ねば(消えれば)、(意識としての)自身にとって不快な情報を発しなくなる』と考えれば、現実的かつ具体的な事実としての“死”を望むのは、十分妥当な説明になる。


『(3)感情・印象など、心に感じていたものがなくなる。』、“なくなる”を願望意識に置き換えると“なくなれ”になるのかな。これは“対象者”に“なくなれ”と願うのと、“意識”に“なくなれ”と願うのと、ふたつの願望が一緒に込められているのかな。これは、具体的な表現というよりも、イメージ寄りの抽象的な表現として“なくなれ”と意識していることを示していると考えていいかもしれない。


まとめ。『“対象者”(“自身”である場合もある)から発せられる情報を(強引に)いれられることによって、意識したくないことを意識してしまう。だから情報を入れられたくない。情報を入れられないためには情報を発信する元の存在が消えなければならない。だから消えてもらいたい、と願望する。“消える”ということを具体的に示した分かりやすい(イメージしやすい)であったことに加え、“対象者”に対するマイナス影響のイメージをそのままダブらせることが出来るということも含めて“死”という単語が使われるようになった。』


やってから言うのもなんだけど、これ全然まとまってない気がするんだ!!!


注:本当に強引な推察のみで成り立っている記事なので、ツッコミどころがあれば容赦なくツッコミを入れてやってください。あ、『情報ソースが無い』というツッコミだけは勘弁してください……。“こうである”というよりも“こうなのかな”という手探り妄想の記事であることを前提にして書いてますゆえ……。このとおりです、お手柔らかにお願いします。